文明の発展とともに消えていった昭和の仕事10選!

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AIが発達したら仕事を奪われる、外国人実習生の受け入れが増えたら仕事が奪われる…。
最近そんな風に騒がれる事が増えています。

昭和の時代にも、「機械が発達した」などの理由により無くなった職業がたくさんありました。

そんな、昭和の時代にはあったけど、今は消えてしまった職業をいくつかご紹介します。

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炭鉱夫

炭鉱夫

炭鉱夫という職業は、江戸時代からありました。
地下300メートルにリフトで降りて岩を削り、炭を集めるのが主な仕事です。

危険な仕事のため、元々は監獄の囚人に採掘を行わせていたそうです。
今だったら人権団体に訴えられそうですね。

経営が政府から財閥等へ移ると、一般人を募集するようになりました。
男性も女性も半裸姿で採掘を行う過酷な仕事で、
度々爆発事故なども起こり、死者も出ました。

政府がエネルギーの中心を石油に移したことから、炭鉱は閉山、リストラが相次ぎ、
労働論議が起こることになりました。

天皇陛下の写真売り

1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と良子妃

戦中まで天皇は神様として扱われていました。
天皇の写真は「御真影」と呼ばれ、人気があり、家庭の床の間に飾られていました。
価格は明治時代で50~60銭と、当時では高額です。

その販売は政府黙認の下、民間業者が行っていました。

男の子は天皇を拝むと出世するという言い伝えや、天皇の写真に対する信仰心もあり、
神棚の隣に天皇、皇后の写真を並べている家(特に地方の農家)が多くありました。

特に昭和天皇は美形だったため、当時の女子学生は、摂政時代の絵葉書を映画スターを見るようにうっとりと眺めていたそうです。

行商人は、畏れ多くも陛下の写真を売るので、着物や背広をキチンと着ていて、威厳がありました。

日中戦争中は天皇の写真を飾ると「愛国心がある」とされ、周囲から評価され、
近所の少年たちからも、憧れの家とされたそうです。

終戦とともに、この行商人も見かけることがなくなりました。

三助

銭湯の下男。

1.風呂を沸かす薪を集めて釜を焚く
2.湯加減の調整
3.番台業務
主にこの3つの仕事を助ける事から「三助」と呼ばれました。
一人前になるには10年はかかり、年季を積んでゆくゆくは銭湯の経営者になる仕組みでした。

やがて釜焚き番をしながら、客の背中を流すようになりました。
背中を流すのが有名ですが、これは副業的なもので、1回いくらで、やった分だけお金がもらえました。
昭和30年代だと背中を流す客は一日に3、40人ほどいて、三助も一軒の銭湯に3、4人いました。

しかし家庭にお風呂が出来ると銭湯の利用者も減り、「いつか銭湯の経営者に」も現実的ではなくなりました。
最近最後の一人の三助が引退し、見ることが出来なくなりました。

バスガール

東京のバスガール/初代コロムビア・ローズ 歌、眉山菊

関東大震災で壊滅した路面電車の代わりに、市バスが開通されました。
新橋から上野の区間を走っていましたが、大変不人気で営業危機におちいり、
人気取りの意味で出来た職業です。
月収は平均41円(昭和11年)

東京のバスガールの制服は三越百貨店のオーダーメイドのワンピース。
募集当時(大正時代末頃)、250名の応募があり、177名が採用されたそうです。

出勤時間30分前には制服に着替え、梯子に上ってバスの掃除。
バスの中で切符の販売、
当時のバスにはドアがないので、客を押し込んだ後は自分がドア代わりになって入り口に立つ。

乗客が支払ったお金を着服していないか、抜き打ちで連れていかれ、服を脱がされて調べられたり(臨検)、酔っ払いのセクハラなどもあった様です。

過酷な職業だというイメージが広まると、次第に応募者が減っていきました。

電話交換手

明治23年から昭和40年頃まで存在した職業です。
タイピスト、バスガールと共に女性のあこがれの仕事でした。
交換手は良家の女性が多く、女中の送り迎えがあることも。

当時の電話は直接かけることができず、交換手を介する必要がありました。
女性の方が記憶力が良く、話し方も柔らかいという理由で多く採用されました。
昭和6年で、初任給は18円程度。

かかってくる電話の中にはデートの誘いや、いたずら電話も多かったが、
「常にお客様が正しい」という電電公社のモットーで、邪険な対応は許されず、
かつては憧れの花型職業だった女性交換手は、次第に見下されるようになりました。

昭和40年代後半になると、電話回線が発達し、交換手が不要になったため、この仕事はなくなりました。

活動弁士

麻生八咫の活弁

大正から昭和にかけては、映画に音はなく、
映像に合わせて楽士が音楽を奏で、「活動弁士」と呼ばれる人が登場人物のセリフやストーリーを舞台上で語っていました。

各映画館に名物活動弁士も現れましたが、昭和4年にアメリカから音付きの映画が上陸し、昭和6年に日本語字幕付き映画が上映となり、活動の場が減っていきました。

昭和10年になると、この音付きの映画が主流になり、活動弁士の解雇が始まりました。
各地でストライキも起こりましたが、活動の場を失って、紙芝居屋やチンドン屋に転職するなどしたようです。

氷売り

幕末から昭和40年ころまで存在した職業です。
のこぎりで適当な大きさに切った氷を、まだ氷が溶けにくい早朝にリヤカーで販売していました。
夏の風物詩であり、季節職業なため、冬は木炭などを売っていたそうです。

昭和30年頃まで、冷蔵庫は高額で、一般の家庭にとって高根の花でした。
断熱性のある木製の箱(氷蔵庫)に、氷を入れることで食べ物を冷やしていたので
氷屋は欠かせない存在で、昭和初期には数千件の製氷業者がいました。

しかし昭和40年代後半になると冷蔵庫の普及率は90%を超え、
氷屋は消えることになりました。

製氷・冷凍・冷蔵庫の歴史

下宿屋

学生や社会人に部屋を貸す仕事です。
夫を戦争で亡くしたり、病気、事故で早逝した時に妻が
生活費を得るために家を改築して部屋数を増やすなどして下宿屋を始めることが主でした。

一軒に5人~10人ほどの学生が住み、大家さんは親代わりとして学生たちを世話していました。
朝食や夕食付の下宿屋も多く、電話は取次形式、門限もあります。
家賃は1980年代で、6畳一間、二食付きで4、5万位。

大家さんが親に代わって下宿人の生活を注意したり、親に連絡を取ったりしていたため、遠く離れた親も安心できる預け先でもありました。

アパートやマンションが出来ると、学生たちは自由を求めて下宿屋を敬遠するようになりました。
下宿屋は次第に減って、現在はほとんど見られなくなりました。
早稲田大学の近くで十数年前に見たことがあるので、もしかしたらまだあるかもしれません。

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提灯屋

提灯に紋や文字を書く仕事です。
江戸時代中期にロウソクが大量生産できるようになり、提灯が一般庶民にも浸透し始めました。
提灯の家紋を正確に書けるようになるには10年かかる難しい仕事でした。

懐中電灯の普及で職人の数も減り、現在は祭り用などのみが営業しています。

ミルクホール

出典:「まいぷれ」様 https://funabashi.mypl.net/

牛乳が飲めてパンが食べられる庶民のお店。
新聞や雑誌が無料で見られた。

明治当時、ビヤホールやダンスホールなど、〇〇ホールと名の付く店が流行っており、
早稲田大学付近の牛乳販売店が、学生向けにオープンしたお店。

学生は銀座のカフェー(カフェにも純喫茶と女性が給仕する場所がありましたが、ここでは純喫茶の方です。)で議論する人たちがいたが、ケーキやコーヒーは高価だったため、懐が寂しくなるとミルクホールに通った。

当時は大学(当時の中等学校)の傍にあることが多く、ハイカラな場所として流行りましたが、
戦後牛乳が入手できなくなり、廃れていきました。

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秘密基地 ミルクホール。レトロな居酒屋、バーです

まとめ

大昔はみんな、農業など、体力が資本の労働をしていました。
しかし、TVやYouTubeでしゃべる事でお金を得るなど、能力に合わせて仕事を選べる時代になりました。

AIが単純労働を担ってくれたら、人が職業を奪われる社会ではなく、
もっと人間が自由になる世界が来たらいいなぁ、と思います。

他にもたくさんの「昭和の消えた仕事」が紹介されています。↓↓↓

以前図書館で借りて観ました。時代が表れていてとても見ごたえがありました。↓↓↓

キューポラのある街

 

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